舞台が中止になるなんてそんなことあるんだろうかと思うけど、これは実際に松居大悟監督の身に起きたことが元になっているそうで、そう思いながら見ているとめちゃくちゃに腹が立って、後半のエネルギーの消費がすごくて、帰りの電車でもまだふつふつと苛立っておりました。
映画『アイスと雨音』の話です。
元町映画館に行ってきた。
広瀬さんのツイートで知ってから、舞台のお話ということでずっと気になってはいたのだけど、東京での公開が先だったり、大阪での公開にどうしても都合が合わなかったりで、ようやく観に行くことができました。
この映画最高ですよ
— 広瀬斗史輝 (@Toshiki_Hirose) 2018年2月2日
言葉に出来ない想いが胸に突き刺さって抜けない
公開されたら絶対観に行くんだ https://t.co/OljH5PLcwf
公式サイトはこちら。
あらすじ(公式サイトより引用)
2017年、小さな町で演劇公演が予定されていた。
イギリスの戯曲を日本で初上演する。
戯曲は、世界の演劇シーンで注目を集める
イギリスの劇作家Simon Stephensの「MORNING」。
親友が町を出ていくことをきっかけに、
鬱屈からの夜明けを描いた物語。オーディションで選ばれ、
初舞台に意気込む少年少女たち。
しかし舞台は、突如中止になった。
「ねぇ、稽古しようよ」と、
ひとりの少女が言い放つ―
この映画の大きなポイントは、74分ワンカットで1ヶ月を描くというところ。
人物のアップになったかと思ったら、その裏で場面転換が行われていて、どんどん物語が繋がっていく。
ひとつの舞台を観ているような感覚。
でも私は映画クラスタではないし技術とか映画のここがスゴイ・ダメみたいな話はできないので、思ったことを吐き出していこうと思います。
普通にネタバレあります。いやな人は見ないでね。
とりあえず舞台中止のシーンが腹立つ
中止の告げられ方が本当にヒドイ。
若い子たちが一生懸命稽古しているスタジオにいきなり偉い人が来て、「前売り券が売れてないから中止」「君たちもガラガラの客席を見るのいやでしょ」「上と話して決めたことだから」って告げて中止。
はァ~~~~!?!?そもそも舞台やるって決めたなら運営がチケット売るの頑張れや!!!!!!(個人的に色々なことを思い出している)
オーディションで決めたのがだめだったね~みたいな話もあったけど、この出演者で行こうって決めたのそっちやろ!!!!!
ていうか、本番寸前で公演中止なんて、観客としてもたまったもんじゃない……
きっと有給申請だってしてるし、ホテルだって押さえてるし、交通機関だってキャンセル料がかかることもあるし…えっ運営がこのキャンセル料出してくれんの???って気持ちになった。勝手に。遠征民だから余計に。
なにより「この楽しみがあるから仕事がんばろう!」って気持ちがへし折られるなんて本当に無理すぎ……
腹が立つと同時に「うっわ~…前売り券だいじなんや…行きたい舞台はちゃんと前もってチケット買おう……」って学習しました。観客として。
そして「何かできることがあるかも…」とうろたえる想に松居監督が「何ができるの?何もできなかったでしょ」と吐き捨てるのが、また見ていてツライ……
事前に松居監督の体験だと知っていたので、それが実際に言われた言葉だったのか、それとも自分に対して思っている言葉なのか、どちらにしてもツライ……と思ったのでした。
自意識を持った宇宙ってなに
劇中に出てくる「自意識を持った宇宙」という言葉。本多劇場に忍び込んだところを見つかり偉い人から叱られるときも、想が「私たちは自意識を持った宇宙なんです!」と啖呵を切る。
どういうことなのか、映画を観ている最中にはよくわからなくて、一晩考えてようやく「こういうこと?」っていうのがぼんやり浮かんできた。
宇宙には際限がない。はしっこも壁もない。
惑星とか星とか塵とか爆発とかいろいろあって、長い年月を重ねてきたものもあれば最近生まれたものもあるのかもしれない。
私たちの気もちも同じで、体という形はあってもその中に今まで生きてきた年月で積み重ねてきた記憶とか、知識とか、感情とか、いろんなものが無限に溢れていて、すべてを言葉で表して他人に伝えることはできない。
「動物も植物も自意識を持っている」という内容のセリフが劇中にも出てくるのだけど、動物や植物が何を考えているのかわからないのと同じように、人間も他人から見たら何かを考えていても感じていてもそれが100%伝わることはない。
たとえ思っていること一言一句を言葉にしたって絶対に伝わらない。
たったひとつのことだって、何もかも説明するなら、生い立ちや思い出や影響を受けた音楽や本や言葉や、何もかも総出で出し尽くす必要があると思う。それはきっと宇宙のように果てがない。
だけどそれぞれに自意識があって、やりたいこととか悔しい気持ちとかこれまで思っていたこととかも、お前にはわからないだろうけどあるんだよ!ってことが言いたいのかなぁと思った。
ロビーにいた松居監督と客について
忍びこんだ本多劇場の舞台袖でロビーを覗くシーン、私の見間違いでなければたくさんの客と、偉い人たちや劇場スタッフを追い返している松居監督の姿が見えたのですが……えっ?見間違い?と思うほど、そのあと舞台に立ったシーンでは客席に誰もいなくて驚いた。
あれは、みんなが見たかった光景でありながら、同じ体験をした松居監督がみんなに見せたい姿だったのかなと思った。
ストーリーの中では松居監督は出演者に対して「中止だからしょうがない」という立ち位置で嫌な感じだったのだけど、出演者は松居監督に味方でいてもらいたかったからあの光景を見たのかもしれないし、実際の松居監督としても「こいつらの舞台を中止にさせてやりたくなかったな」という思いであんなふうに自分を描いたのかなと。
このシーンのことを思い返すと、関ジャニ∞の『応答セヨ』の「いっそ目を閉じちゃって 見たかった世界を心に描こう 誰にも邪魔なんかさせたりしない」 というフレーズが同時に流れてくる。そういうことなんだろなぁと思う。
『アイスと雨音』というタイトル
上記のシーンのあと、からっぽの客席に雨音が響いて拍手のように感じられるシーンがあった。だから『雨音』というのはそれを表しているんだろうなぁと思った。
悲しげな雨音を、本当は聞きたかった観客の拍手に見立てて舞台が始まる。
でも『アイス』がそこまで重要な意味を持っているのか不思議だった。
アイスが劇中に出てくるのは2回。
想が劇中劇のセリフとして「私の好きなものなにかわかる?」「アイス♡」と言うシーンと、劇場入りの日に想がもらった余ったアイスをスタジオに来た紅甘と1本ずつ分けて食べるシーン。
それだけなのに、なんでタイトルになるほどの意味を持つのかわからなかった。
けど、帰宅してから不意にぼやぼや~っと「同じ釜の飯を食う」という言葉が自分の中に浮かんできた。たぶん普通に全然関係ないと思うけど。過去に同じ時間を過ごした仲間のことをあらわすときに使う言葉。
劇中劇の想の好物であるアイスを、劇場に向かう道中で劇中の想がかじりながら進んでいくとき、それまでは「稽古」と「現実」として存在していた二人の想がひとつになったんじゃないかなって思った。
カットのあとも見せるラスト
この映画では最後のカットがかかったあとも少し出演者たちが素に戻る様子が流れる。
松居監督の『私たちのハァハァ』も以前見たのだけど、そのときも最後にカチンコが映っていたのを思い出した。
九州から東京を目指して行く女の子たちの話で、撮影もその順番に進んでいったということで、それと似たところがあるのかなぁと思った。
現実とストーリーが重なっていて、「カット!」の瞬間にストーリーが終わると同時に撮影もおしまい。だけど撮影していた人たちの物語はこれからも続いていくんだよ、みたいなものを感じた。
あと、別のインタビューを読んでいたら、こんなことが書いてあった。
役者は舞台が始まったらそのままカーテンコールまで行く。そういうものを映像的に見せたいと思った時に、カットをかけずに最後までいけば、それはきっと舞台でやっていることと変わらない
【インタビュー】映画『アイスと雨音』監督 松居大悟 この物語、どこが現実でどこが虚構なのか… – TOKYO HEADLINE
今回「カット!」のあとも映像が流れているのはカーテンコールでもあるんだと思った。舞台と同じように役である出演者を見続けて、最後に本人の姿を見られる。ワンカットなところだけじゃなくて、そういうところも舞台みたいな映画なんだと思った。
たぶん映画を観てない人には全然よくわからなそうな感想ですね…
でも見終わったあと、ふつふつもやもやもごもごしてたのをようやく言葉にできてめっちゃスッキリした~!!