これは厄介だっていう説もあるけど

すきなものについて雑多に語るブログです

10/4 舞台『まさに世界の終わり』名古屋公演を観劇しました


内博貴くん主演の舞台『まさに世界の終わり』を名古屋で観劇してきました。

 

ちなみに下記公演もこれからあります!

10/6(土)藤沢市民会館

10/13(土)~11/6(火)東京 DDD青山クロスシアター

一般チケットがまだ残っている日もあるので、気になる方はぜひ!

www.stagegate.jp

 

 

先にストーリーのネタバレにはならなそうな、自担の様子だけ言いたい。

(これも人によってはネタバレになるかもだから、避けたい人は避けてくださいね)

 

 

いままで見てきた内博貴の舞台で、一番いろんなかっこよさが詰まってる!と思った。

かわいさは『コメディ・トゥナイト!』の比呂くんがダントツ優勝なんですけど、かっこよさは『まさに世界の終わり』のルイくんが一番だわ…私の中で。

 

家族に向ける愛想笑い、家族に自分の死をなかなか言い出せない焦りの表情、シニカルな笑み、自分の死が迫ることに対しての絶望、悲しみ、孤独、諦め、怒り…内博貴が魅せる感情表現の乱れ撃ち。

愛され息子な一面も、邪悪な本心の一面も、死への恐れで子供のように泣く一面もあって、それが表向きと内心のシーンを行ったり来たりするもんだから、感情の移り変わりが目まぐるしい。

 

いままで、内くんのお芝居でこんなにも表情の機微を見たことがあったかな…と思うほど、家族の言葉ひとつひとつに対する表情の変化もあって、目が離せなかった。

 

本人は「セリフ難しい」とか「俺の苦手なタイプ」とか「禿げそう」とか「ポッカーン」とか言っているのを聞きながら、「とか言ってしっかり仕上げてくるやん~!」とは思っていたけど、なんかもう、今まで知らないくらい(私の観察力がなかっただけかもしれないけど)それぞれのセリフにも行間にも緻密に気持ちを使い分けてるのかと驚いた。なにこれ。こんなにすごいことができたの。知らなかった。

去年の内パラから「内博貴の新章がまた始まったな」と思っていたのだけど、この舞台も新章を語る上で外せない項目になると思う。

 

しかも、ジャケットの裏地が暗めの赤なのがすごく色気を感じてすごい。(語彙がない)

ルイの愛想笑いの裏に秘めた渦巻く感情を象徴するかのような、血の色みたいな暗い赤色。

パンフレットの衣装デザイン画にも「深い赤」と指定があるので、何かしら意味はあるのかもしれない。

パンフレットの表紙も、登場人物の人数と同じ、5枚の赤い花びら。

 

東京のトーク回に行くので、何か裏話的なことも聞けたらいいなぁ。

 

 

 

 

ここからはストーリーのネタバレですので、避けたい方はご注意ください。

 

というか、見た前提で自分が言いたいことだけ書いてるので、見てない人が読んでもなんのこっちゃ意味わからんと思う。 

 

 

原作の翻訳本を買ったものの、開いた瞬間から意味がわからなくて、果たして私はこの舞台を楽しめるんだろうか…という不安が大きかったのだけど、杞憂でした。

本で読んだだけのときは文字通り白黒の文字でしかなかったセリフが、舞台では音楽、照明、出演者の方々の動きや声色、表情などで色づいたように見えて、作品に命が吹き込まれるというのはこういうことか、と感じました。(それでもセリフは難しかったけど)

 

原作では内くん演じるルイが34歳で、鍛治直人さん演じるアントワーヌが弟という設定でしたが、舞台では年齢設定を逆にしたようです。

パンフレットを読むと、ニュアンスだけど「家を出て作家として成功した弟は、地元の工場で働いている自分とは違うと感じたときに屈折した気持ちが出てきたのではないか」といったことが書かれていて、アントワーヌが乱暴な態度をとるのは弟に対する愛憎ととらえて話を組み立てているらしい。

確かに、兄よりも弟のほうが奔放に生きて成功しているのなら、兄にとっては羨ましかったり妬ましかったりするのかなと思った。

でも母親が「アントワーヌが怒ったときに、もう何も背負いたくないって言う」というシーンがあって、そこは舞台のアントワーヌが兄であるよりも、原作通りアントワーヌが弟であるほうが、家族を背負うという負担は余計に大きく感じられたのではないかなと思った。

兄弟の設定は、理由付けをしやすいように逆にしたのか、それとも出演者の年齢に合わせたのか、どういう意図なのかなと気になる。どこかでわかればいいな。

 

内くんはパンフで「この家族が肌に合わなくて出て行ってずっと帰っていなかったのかも」「出て行って、死ぬからじゃあ帰ろうっていうのは自分勝手だと思う」という内容のことを言っているのだけど、私は、ルイは戻りたかったけど出て行った手前戻りづらくて、いつかいつかと思ううちに18年も経ってしまったんじゃないかなと思う。

 

でないと、わざわざハガキを送って接点を保ち続けようと思わないだろうし、行方もわからなくしちゃうと思う。

しかも電車とタクシーで行き来できる距離なら、ハガキの住所で家族が訪れてくる可能性だってある。

もしかしたら、ルイはそれを試していたのかもしれない。

二言三言のメッセージを送り続けて、いつか家族が自分に会いにきてくれると思っていたのかもしれない。

でも全然来てくれないもんだから、自分は愛されてないと憎しみを募らせてしまった。

家族に愛されてないと思って、でもいつかまた会いたいと思っていて、そのままずっと時間が流れて、死ぬことになったから最後に会いに行ったのかな。

 

プロローグのセリフで「こうした極限状態(死を待つだけの状態)でも自分を思い通りにできるという幻想を(他人にも自分自身にも)与えるために」とある。

そのセリフの最初のほうには、ニュアンスだけど「死を認めることになってしまうから死を意識するような行動をするのは怖い」といった内容のセリフもあって、その怖さを乗り越えてまで「思い通り(=家族に告げる)」にしたいんだから、会いたかったんじゃないのかなと思う。

 

でも結局言えないまま迎えたエピローグのセリフでは、過去、夜に山の中で線路沿いを歩いていたら陸橋に差し掛かり、谷をまたぐ線路を歩いたことが綴られている。

そうやって天と地の間を歩いていたときに、歓喜の叫び声をあげるべきだと思った、それが幸福感だと思った、けどやらなかった、とも書いてある。

そして最後のセリフは「僕が残念に思うことになるのは、こんな感じで忘れていくことさ。」で終わる。

 

ルイは自分が一瞬「したい」と思ったことをその場でパッとできない人間なのかもなと思った。(実際、家族に死ぬこと言えてないから、そらそうやわな)

月明かりに照らされた誰もいない陸橋で叫ぶことなんて誰にも迷惑をかけないし、きっと気持ちいいと思う。でもしなかった。

「やっとけばよかった」という記憶が残って、でもその時の反省を生かせずに忘れてしまう。

それで今回家族のもとに帰っても、プロローグでの決意を押し込めてしまって、また「やっとけばよかった」を繰り返す。

決意を忘れるんじゃなくて、「やっとけばよかった」と後悔する気持ちを忘れてしまうのかなと。

「夜中に陸橋で叫んでみたらよかった」

「18年の間に家族に会いに帰っとけばよかった」

「ちゃんと死ぬこと言ったらよかった」

残念なやつ~。

 

だからきっとルイにとって家を出て行ったことは、すごく大きい決断だったんだろうな。

自分の言いたいことも言えず、やりたいことを抑えて、愛想笑いをして、それに疲れてついに爆発したんじゃないかな。

だから家族を嫌っているような、嫌おうとしているようなセリフが出てくるのかな。

あのショータイムみたいなとこ。(あれ、いきなりショータイムみたいになったな!と思ってびっくりした。歌うんかと思った)

爆発だったら、家族に会いたくてもホイホイ帰るのが憚られるような別れ方だったのかもしれない。

でも、難しいセリフばっかりだったので、もしかしたら見当違いのことを言ってるかもしれない。

あと数回観るので、読み取れるようにがんばる。

 

あとは、お母さんが日曜日にはドライブに行ったのよって話をしてたくだりで泣いちゃった。

息子が大きくなってその恒例行事がなくなったと言っていたけど、お母さんはそれをさみしく思ったんだろうなぁ。

うちの家族も小さいころは家族みんなで出かけたけど、いまはあまりなくなって、たまにみんなで出かけるときは母がすごくうれしそう。

それと、ルイとお母さんがテーブルで話しているシーンで、お母さんがやたらとルイの手をぺたぺた触るんだけど、あ~~これうちの母にもよくされるわ~~と思った。

「華ちゃん大きくなったねえ~今日はご飯食べて帰りや~」とか言ってめっちゃぺたぺた触ってくんの!笑

だから、あのお母さんの仕草はルイが帰ってきたのを本当に喜んでるんだろうなと思って、それでも泣いちゃった。

どっちが先かわからないけど、うちの家族にもルイ達みたいに別れが来るんだなと思って。

 

シュザンヌとカトリーヌの心境についてはパンフレットを読んでどちらもすごく腑に落ちた。

シュザンヌは父親代わりの兄に腹が立つときもあるけどそれを我慢してて、今回はそれが表に出て、アントワーヌからしたらそんなことは「初めて」だから、ルイへの愛憎と相まって余計に腹が立ってイライラが募ったんだなと。

 

お芝居だから大げさだし、よその国の話だから感覚的に理解しにくい・できないことも多いけど、それを考えてみる楽しさがあった舞台でした。

内くんの今までにない面を見られたのもよかったし、私自身も内くんのお芝居を今までにない楽しみ方ができてよかったな。

といっても、まだまだわからないことはたくさんあるし、まだこれから行く公演もあるので、もう少し内くんが台本から読み取って理解して込めているであろう気持ちや設定を感じ取れるようにがんばります。

 

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10/17追記

ルイが家を出た理由について

 

マシュマロでこのコメントをいただいて、調べたり考え直したりしました。

marshmallow-qa.com

 

作者のラガルスがエイズで死去したということは知っていたのですが、「エイズは同性愛者に限った病気ではない」ということに配慮しすぎて、その可能性を完全に排除していた。

けれど、映画『たかが世界の終わり』ではルイは同性愛者という設定らしい。(ネットで見ただけだから、映画も見てみよ)

原作のあとがきにもエイズについては「同性愛者の病と言われた」との記述はあったけれど、ラガルス自身がそうだったのかどうかは検索してみてもよくわからなかった…見落としていたらすみません…

原作のルイがどうなのかまでは描かれていないけど、そうだとしたらアントワーヌがカトリーヌに「ルイは子供を作らないかもしれない」と言った話を聞いて動揺したのも、自分が同性愛者であることがバレたのかという動揺だったのかもなと思った。

(観劇したときは、来年死ぬからもう子供は作れないという気持ちなのかと思っていた)

 

さらに、シュザンヌのセリフには「ルイ(アントワーヌの息子のほう)が洗礼を受けたとき」という一言が出てくる。

洗礼という単語から、この一家はキリスト教徒ということがわかる。

キリスト教では同性愛は罪とされる。

最近はLGBTやレインボーパレードなどが世界で盛んになっているけど、この戯曲が書かれた当初はもっと風当たりが強かっただろうし、ましてやキリスト教で罪とされるなら、他人はもちろん家族にも、人に言うのは相当憚られることだったのではないかと思う。

それで、ルイは家族に知られたくないとか、周囲に知られて家族に迷惑をかけたくないとかで、家を出て行ったのかもしれない。

原作ではルイが兄という設定だったので、長男として父親のいない家庭を守っていかなければならず、さらに跡継ぎを作らなければならないというのは、かなりのプレッシャーだっただろうし、それも原因にあるかもしれない。(フランスに跡継ぎの概念あるのか知らんけど。でも親の名前やさらにその親の名前を子供につけるって話はあった)

 

あとは、なにか気づいたらまた書こうと思います。