これは厄介だっていう説もあるけど

すきなものについて雑多に語るブログです

関ジャニ∞は何処でも光る


youtu.be

 

 

関ジャニ∞は、私が人生で初めて、結成を見届けたグループだった。



生まれた時からジャニーズは身近にあった。

NHKで見ていた『忍たま乱太郎』や『飛べ!イサミ』の主題歌。

怖がりながらも夢中になっていた『金田一少年の事件簿』や『ぼくらの勇気 未満都市』などの土9ドラマ。

その人たちが同じ事務所に所属していると認識したのはいつだったのかはもう覚えていない。

気づけば私の小さな世界は剛派と光一派でマイルドに分かれており、好きなドラマに出ていた人たちがまとまって載っている雑誌を買ってもらって、初めて自分専用に作ってもらったカセットテープの1曲目にはV6の『愛なんだ』が入っていた。

三宅健くんが好きで、小原裕貴くんに夢中になり、そしてそのうち怪盗キッドが小学生の私の興味関心を掻っ攫っていって、小原くんがいなくなったことにも気づかずに過ごしていた。

 

小6の頃だったか。長野県に住む従兄妹が大阪にやってきた。

兄の方はモー娘。にハマっており、妹の方は「りょうちゃん」が好きだと言う。

二人の希望で心斎橋に行き、写真が山ほど壁に並んでいる店に入ったことを覚えている。

 

「りょうちゃん」

 

その親し気な名前だけを私は覚えて、顔はよく知らないままだった。

従妹は「ヒナ」という名前も口にしていた。

 

『ガキバラ帝国2000!』を見て、相葉ちゃんに興味を持った。

そのあたりで関ジャニ(今の「関西Jr.」の意味)を認識したのかな。

嵐を好きになって『USO!?ジャパン』をまともに見るようになってからは、きちんと横山裕村上信五渋谷すばる錦戸亮を認識していた。

 

中1だった2001年6月。

父親がどこからか、J2000野球大会のチケットをもらってきた。

このときの私は大阪ドームで選手紹介を聞きながら、「村上信五、長谷川純、今井翼だけわかる」という状態だった。

EASTチームのキャプテンは亀梨和也、WESTチームのキャプテンは内博貴

どっちも知らんけど、どっちも変わった名字だなぁと思って記憶には残りつつ、外野席だったので顔はまともに見えず、名前だけを覚えて帰って来た。

野球はよくわからなかったけど、最後にショータイムがあって、たくさん歌を歌っていて、知ってる曲もあって楽しかった。

キャプテン二人の顔を認識したのは、後日その野球大会の様子がテレビで放送されたときで、「こういう顔してたんや」と思った。

 

嵐や当時大旋風を巻き起こしていた山P目当てで買い始めたジャニーズ雑誌に、亀梨和也内博貴が載っていることに気がついた。

夜中に内博貴が出てるテレビ番組があるらしい。

顔もわからないほど遠くだったけれど、初めて生で見たジャニーズに親近感を覚え、テレビを見てみた。

『週刊Ⅴ.WEST』だ。

 

番組の最後に歌のコーナーがあり、『Answer』が披露されて、衝撃を受けた。

 

内博貴、歌うま!!!かわいい!!!」

 

内担誕生の瞬間である。

 

Ⅴ.WESTが出ているテレビはその深夜番組ぐらいしかなく(少クラは家で映らなかったのでわからない)、ジャニーズJr.が出ている深夜ラジオを聞き始めた。

出演は固定ではなく、4人程度で2回ごとにメンバーが入れ替わる形式だった気がする。

よく出て来るのは、村上信五横山裕渋谷すばる山下智久生田斗真あたり。KAT-TUNのメンバーも出ていた。

たまに安田章大がいて、「Ⅴ.WESTの人や」と思っていた。

10月、村上信五安田章大とほかのジャニーズJr.2人で、舞台に出ると告知があった。

『翔べ!翔べ!女たち』という、うつみ宮土理さんが主演の舞台だ。

母に「ヒナが舞台やるんやって」と言うと、チケットを取ってくれた。

新歌舞伎座に、祖母と私と妹で観に行った。

この舞台がコメディで、ストーリーがおもしろい舞台で、2幕にはショータイムまであって、本当によかったと思う。

『SHAKE』と『買い物ブギ―』をやってたのを覚えている。『買い物ブギ―』は『ちびまる子ちゃん』のマンガで見たことがあったので、本物の歌が聞けてうれしかった。

 

中1の冬、先輩がチケットを取ってくれて、嵐のコンサートに行った。

バックバンドがⅤ.WESTで、私はここで人生で最初で最後の、5人のⅤ.WESTのパフォーマンスを見ることができた。

 

3月にはタッキーメインのJr.コンサートがあって、「りょうちゃん」が好きな従妹と一緒に大阪城ホールへ行った。

このときにはドラムの今山君が抜けていて、Ⅴ.WESTは4人体勢。

持ち歌はサビ前からちょこっとしか披露されず、大阪公演なのに三馬鹿(村上・横山・渋谷)は出演すらしておらず、MCの最中に見学にきていた村上君がたこ焼きを持って乱入してきた。

今考えれば、あれは関ジャニ氷河期だったのかもしれない。

 

このコンサートに行った翌日、従妹とUSJに遊びに行き、帰りに梅田駅で迷子になって2人とも半泣きでふらふらしていたら、ちょうどコンサート帰りと思しきⅤ.WESTがたむろする輪のド真ん中に飛び込んでしまった。

ジャニーズに全方位を囲まれること、たぶんもう人生で二度とないと思う。

 

そういうタイミングの良すぎる体験が重なって、2002年の8月がやってきた。

ANOTHERという、関ジャニだけの舞台が始まる。

キャストの中にⅤ.WESTの水野君だけが入っておらず、なんとなく、やばいなと察した。

ショータイムには出ていたようだけど、舞台が終わってすぐにいなくなった。

 

私はお母さんに嵐のファンクラブに入ってもらっていたので、関ジャニの舞台に行ってみたいということが言い出せずにいた。

というか、チケットの取り方すらわかっていなかった。

気付けば始まって、気付けば終わっている。

テレビで舞台の特集が放送されて、その録画を何回も何回も見て、MDに録音して聞き続けた。

そのDVDは今も家にある。

 

『週刊Ⅴ.WEST』が終わり、『J3KANSAI』が始まった。

村上信五横山裕渋谷すばる錦戸亮内博貴安田章大丸山隆平

 

12月、この7人に大倉忠義という、名前も顔も初めて知るメンバーが入って来て『関ジャニ8』という名前が発表された。

 

三馬鹿の3人と、亮ちゃんと、Ⅴ.WESTの3人と、大倉君。

初めて目にした新グループ結成は、私にとってはいびつだった。

 

大倉君はドラムとしての加入で、Ⅴ.WESTの新メンバーにもなった。

当時は自分の好きだったⅤ.WESTが変わってしまって、取られたような気がして悲しかった。

今になって思えば、そのとき大倉君が未経験のドラムを練習して入ってくれたから今でも私の好きだったⅤ.WESTのバンド体勢が続いているので、ふてくされていた当時の自分に説教をかましたい気持ち。

でもまぁ、子どもにはそんなことわからんわな。

あのとき入ってくれたのが大倉君でよかった。

あれから何度、つらい局面で大倉君の言葉に救われたか。

 

いびつだったグループが、徐々になじんできた。

相変わらず私はJr.情報局には入れておらず、関ジャニ8の現場を知ることのないまま高校生になった。

 

2004年。

高校に入って部活を決めると、同じクラスの子が2人いた。

一人は大倉担、一人は安田担。

示し合わせたわけでもないのに、クラスに3人だけいた、まだデビューもしてない関ジャニ8のおたくが見事に同じ部活にそろったのは奇跡だと思う。

いまだにTwitterで繋がっており、3人とも関ジャニ∞を追っている。(それもすごい)

 

インターネットで仲良くしてもらっていたサイト持ちのお姉さんがいて、そのサイトの掲示板で交流していたところ、ある日「関ジャニ、デビューおめでとうございます」と言われた。

 

「デビューってなんですか?」

 

CDが出ることは知っていたのに、デビューというものをわかっていなかった。

その少し前にYa-Ya-yahが『勇気100%/世界がひとつになるまで』のCDを出し、それがそのとき限りだった記憶が新しくて、『浪花いろは節』もそういうものなんだと思っていた。

関西限定で1回限りだけどCDを出させてもらえるんだ、よかった、最初で最後のCDかもしれへん、だいじにしよう、と。

 

カラオケやTSUTAYAに行くたびにⅤ.WESTや関ジャニ8の曲を探して、「ないなぁ」といつも思っていた。

それが「ある」ようになってさらに続いていくのが「デビュー」だということを知った。

 

浪花いろは節』発売記念で行われた南港での握手会は、クラスメートと一緒に行った。

炎天下で昼から4時間並んで、まさかそんなに並ぶと思っていなかった私たちは水分も食糧もなく、列の途中で交代しながら調達に走った。

近くの自販機からは飲料が全てなくなり、缶入りのカロリーメイトだけが残っていたのを覚えている。

たしか夕方の4時半ごろ。

あと少しで入り口に着くというところで、列が止められた。

終了時刻だとのこと。

「こんなに並んだのに会えずに終わるの…?」と私たちは素直に解散もできず、呆然と立ち尽くしていた。後ろの行列も動かなかった。

 

「どうしようか」と、帰るしかないのに名残惜しくて離れられずにいると、また列が動き始めた。

予定時刻を過ぎたにもかかわらず、握手会を再開してくれることになったらしい。

関ジャニ∞、めっちゃ優しい。

入り口で安田くんが笑顔で出迎えてくれた。

握手会は8人全員とできて、贅沢なほど優しい設計だった。

ものすごいスピードで進んで、テレビで見ていた顔がすぐ近くを通りすぎていって、幻みたいだった。

あまりの早さと動揺で、最後に横山くんと握手をし損ねた。

スタッフに流されながら、「横山くんと握手できんかった」と訴えたけれど、無慈悲に追いやられるし、どんどん流れていく列には戻れそうもない。

これはもう無理やわ、と思っていたところに、「ごめん、握手できんかった!?」と、レーンの中からわざわざ横山くんが出てきてくれた。

ごめんなさいとありがとうを伝えて、握手をしてもらった。

 

この日、入場も最後の握手も悲しい思い出になることがなかったおかげで、私は関ジャニ∞を好きでい続けられたのだと思う。

 

2004年冬にはJr.のときの曲が入った夢のようなミニアルバム『感謝=∞』が出て、2005年の2月には『大阪レイニーブルース』が発売。

「ほんまに1枚限りで終わりじゃなかったんや」と思った。

 

2005年。

高校2年生になり、関ジャニ∞繋がりの友人が一人増えた。彼女はすばる担。

私は情報局のハガキをまとめて買うのに金額的にどうにも勇気がいって入会できないままだったのだけど、2005年の夏前、彼女がチケットを取ったから一緒に行こうと誘ってくれた。

初めての大阪城ホール単独公演。

私が行ったJr.のコンサートではあまり目立てていなかった彼らが、ひとつのグループとして単独でステージに立つ。

 

届いたチケットはアリーナ最前列。

月末のコンサートを楽しみに、7月中旬、私たちは修学旅行でオーストラリアへ渡った。

不在にする1週間のバラエティやドラマをすべて、録画予約して。

 

その1週間の間に、内博貴は不祥事を起こしていなくなった。

 

帰ってきたら録画した番組の出番は全てカットされており、週1更新のブログはストップしていた。

 

そのときの私を支えてくれたのが、大倉くんがブログの文末に記してくれるようになった「8→1」だった。

あれが大倉くんの言葉に対する安心感の始まりだったな。

これまでのメンバー脱退でも、先日更新のあった名称変更に関するブログでも、大倉くんの言葉で少し感情を咀嚼できるようになっている感じがする。

 

初めての単独コンサートには当時流行っていたブギウギTシャツのピンクを作って着ていって、悲しい気持ちももちろんあったけど、それを忘れさせてくれるぐらいに楽しかった。

ちゃんと楽しかった。

新曲の『好きやねん、大阪』でみんなが黒いジャケットにピンクのインナーで揃えて出てきてくれた。

あのとき、未成年でのやらかしということもあって報道では名前が伏せられていたこともあってか、表立ってコメントできるような状況ではなかったけど、全員揃えたピンクの衣装で無言のメッセージを受け取った。

 

8月には松竹座での舞台『Magical Summer』を観に行った。

 

9月に『好きやねん、大阪』の握手会。

私が並んだ列はすばるくん、村上くん、大倉くんの3人だった。

亮ちゃんはいなくて(途中で来たのかな?)3人ずつに分かれているレーンのどちらかを選べるシステムだった。

私は大倉くんに「8→1」のお礼を述べたいがために大倉くんのいるレーンを選んだ。

ここでもピンクのブギTを着て行った私を、3人は力強く見据えて、握手をしてくれた。

「ありがとう」の応酬だった。

 

そのあとやっと情報局に入って冬の松竹座は自分で申し込んだけど、落選。

 

2006年。

受験生になってからは5月の大阪城でのコンサートや、8月の松竹座での舞台『Another's Another』へ行きつつ、受験勉強に勤しむ。

自担が不在の様子をあまり見られなかったのと勉強しなければならないのとで、テレビを見なくなっていった。

 

そして受験直前の2007年1月、内博貴復帰の報道が流れる。

絶対に浪人はできないと思った。

この日は朝のワイドショーをきっちり見て、学校へ遅刻した。

ラストスパートをかけ、合格し、2月下旬には関ジャニ∞初めての京セラドーム公演へ。

 

大学1年の夏に47都道府県ツアーの大阪城ホール公演に入ったのを境に、私は関ジャニ∞の現場からいったん離れた。

9月の『PLAYZONE』で内博貴の復帰を迎えたからだ。

 

自担不在のグループの活動と、自担の活動が分離してしまって、私は自担だけを見ることを選んだ。

関ジャニ∞の曲を聴かなくなって、BUMP OF CHICKENとか、東京事変とか、RADWIMPSを聴いて過ごしていた。

なんかでも『無責任ヒーロー』だけCD買ったな。

たぶんたまたま発売時期にCDショップで見かけて、「やっとるな!」って感じで買ったんだと思う。

 

2011年に就職して、8月に神奈川へ引っ越した。

人生初めての引っ越し当日、初めて関ジャニ∞がメインパーソナリティーを務めた24時間テレビが放送された。

見知らぬ土地で、よく知っている人たちが1日中テレビに出ているのは、やけに安心感があった。

 

帰省のタイミングで高校の同級生たち(前述の大倉担・安田担・渋谷担)と遊んで、そのときに空白期間のコンサートDVDを見せてもらった。

やっぱり関ジャニ∞っていいな、と思っていた矢先、2012年に映画『エイトレンジャー』が公開。

コントで見ていたエイトレンジャーが映画になるということで、すばる担と見に行った。

なんでかは全く覚えてないけど、あの子は大阪に住んでたのに、品川の映画館で一緒に見た。

 

久しぶりにTSUTAYA関ジャニ∞のCDを全部借りて、曲を聴いた。

PUZZLE、∞UPPERS、FIGHTはこの時期にまとめて知った。

私がよく聴いていた頃は歌謡曲っぽい曲が多かったけど、ずいぶん作風が変わっていた。

バンド感が強い曲も増えていて、元気が出る曲が相変わらず多くて、夢中で聴いた。

毎日通勤の40分の間に、これまでの空白を埋めるように聴き続けた。

 

関ジャニ∞の曲『生きてる僕ら』に、こんなフレーズがある。



夢のなかで
僕らは生きて
いつか夜に
魔法が溶けて
思い出したように大人になってさ
多くのことを忘れてしまう

それでも確かに
僕らは生きて
こんな夜に
魔法をかけた
綺麗さっぱり忘れてしまっても
僕らは君の何処かで光るから

 

open.spotify.com



まさにそのとおりで、私が関ジャニ∞から離れても、熱狂的に好きだったあの頃の気持ちを忘れてしまっても、関ジャニ∞は私の中で光っていた。

 

関ジャニ∞がきっかけで繋がった友人との交流は続き、力強い歌詞に育てられた丈夫なメンタルで社会を生きていた。

 

一度取り戻した光はずっと輝きを増して今に至る。

 

2012年、8周年を記念した『∞祭』で本格的に出戻りを果たした。

友人と幕張メッセに2日間連続で参加して、コンサートや展示を見た。見切れないほどの情報量だった。

年表を見て、私が知らない間に起きていたことを知って、懐かしい曲や初めて聴く曲を楽しんで、久しぶりの関ジャニ∞トークに笑いころげた。

パンフレットでは2005年当時のことも語られていて驚きつつも嬉しかった。

 

初めてのスタジアム公演『8EST』では懐かしい曲がたくさんあって、出戻りするのにすごくいいタイミングだったのかもしれない。

久しぶりに見る関ジャニ∞の単独コンサートは、オープニング映像で色の話をしたかと思えば全員ピンクの衣装で現れて、私が救われたころの関ジャニ∞のままだった。

昔見た3兄弟の曲もあった。

大倉君と亮ちゃんのなんかめちゃくちゃカッコイイけど全然知らん曲が始まって、友人と「わからんけどこれが多分噂のtornや」と察したりした。

神奈川に住んでた時期なのになんで長居で参戦したのか全く覚えてない。

内くんの現場と重なってたのか、大阪で見たかったのか、なんだったのかな。

 

写真集が出たり、初めて紅白に出たりもこの年だったな。

紅白の衣装がデビュー当時のブギウギTシャツのリメイクで、関ジャニ∞らしいなと思った。

 

2012年以降、毎年コンサートに行くようになった。

 

社会人の財力をもって気軽に遠征するようになり、札幌、東京、名古屋、福岡、福井、大分に行った。

初めての海外公演で台湾に行けたのも嬉しかった。

出戻り後のことはブログにたびたび記録を残しているので、振り返るのはこのあたりまでにする。

下にリンク貼っとく。

 

関ジャニ∞をきっかけにTwitterを介して友達が増えて、会社では得られない出会いがたくさんあった。

現場関係なく旅行へ行ったり、遊んだり、飲みに行ったり、人生相談したり、結婚式に呼んでもらったり。

もちろん、高校のときの友人ともまだ繋がっている。

 

内博貴は帰ってこなかった。

渋谷すばるがいなくなって、錦戸亮も抜けてしまった。

 

へこんだり思い悩む様子を見せつつも、関ジャニ∞は力強い歌と笑いを届けてくれている。

好きだった形が随分と変わってしまったけれど、それで輝きが鈍ることはなかった。

名前が変わったところで、関ジャニ∞の良さが損なわれることはない。

めっちゃ寂しいけど。

 

「せきじゃにむげん」とか無茶苦茶な読まれ方をされたり、ケータイやパソコンで「患者に」としか変換できなかったりすることが、遠い昔の体験になった。

それは関ジャニ∞がずっと活動を続けて、世間に名前を浸透させてきたからだった。

そうなるまでみんなが頑張って育ててきた名前を変えざるを得ないのは悔しい。

メンバーが減っても関ジャニ∞を続けていくと覚悟を決めてくれた彼らが、「関ジャニ∞」の名前を失わないといけないなんて。

 

メンバーが減るのは3回経験したけど名前が変わるのは初めてで、正直実際になってみるまでどういう気持ちになるのかはわからない。

活動やグループの寿命を意識することはあっても、まさか名前が変わるとか想像したことないやん。

 

めっちゃ寂しくて、受け入れられるかちょっと不安で、結構「新しい名前めっちゃダサかったらどうしよ…」と思っている。

頼むぞ。

でもあんまりオシャレすぎても戸惑うと思う。わがままでごめん。

 

関ジャニ∞の名前が入った曲はどうなってしまうんだろうとか、ライブでのコールに順応できるだろうかとかいう心配もある。

でも彼らがきっと相当悩んで決めた結果を、デカい声で呼んで受け止めたい気持ちもある。

 

すごい複雑な気持ちだけど、でも絶対に、たとえ名前が変わってもまた世間に浸透させるためにその名前で呼んだるからな、という意地みたいなものもある。

Xは一生Twitterと呼ぶが。

 

関ジャニ∞のインスタでは、名称変更までのカウントダウンがなされている。

20周年という節目に、まるで一つの時代が終わるみたいな気持ちになる。

彼らの輝きは何も変わらないのに。

 

けど、「関ジャニ∞」という名前のグループと過ごした人生や「関ジャニ∞」が楽しませてくれた時間を、私の宝物のような思い出を、何かに対する呪詛に変換したくはない。



関ジャニ∞」の時代、ありがとうな。

 

来世もよろしく。

 

 

youtu.be

 

-------------------------------------------

 

関ジャニ∞との楽しかった思い出!!!

 

pink8er-hana.hatenablog.com

 

pink8er-hana.hatenablog.com

 

pink8er-hana.hatenablog.com

 

pink8er-hana.hatenablog.com

 

 

旅行ブログの記事

hana-trip.hatenablog.com

 

hana-trip.hatenablog.com

 

hana-trip.hatenablog.com

 

hana-trip.hatenablog.com